
26日(日)に埼玉県志木市民会館に於いて第45回 オルケスタ新座マンドリンクラブの演奏会があり、ゲストで出演。
アマチュアの集まりとは思えないほどプロ顔負けの演奏は素晴らしいものだった。
マンドリンとは初めてのコラボレーションだったが、特に第2部の津軽の四季では「どだればち」や「津軽じょんから節」を見事に表現し、三味線弾きの私でも驚くほどの演奏に圧倒された。
たまたまこのクラブに高校の同級生二人がギターとパーカッションで所属していた関係もあり、夢の競演が実現したのだ。
更には以前にコンビを組んでライブ活動をしていた津軽弁の語り部、保村雪山さんとの久しぶりのコラボレーションも嬉しかった。雪山さんは初代・高橋竹山先生に入門後、関東に来てから高橋栄山先生に習い継ぎ、私とは兄妹弟子となる。現在は哀愁のある津軽弁の語りと津軽三味線で故郷への思いを、表現するライブ活動を続けている。
- 2012/02/29(水) 09:14:54|
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高橋竹山

(1910-1998)
明治43年(1910)6月、青森県東津軽郡中平内村(現・平内町)字小湊で生まれる。本名定蔵。幼いころ麻疹をこじらせ半ば失明する。近在のボサマ(戸田重次郎)の内弟子となり三味線と唄を習い、東北から北海道を門付けして歩いた。昭和19年(1944青森県八戸盲唖学校に入学し、針灸・マッサージの免状を取得。戦後は津軽民謡の神様と言われた成田雲竹の伴奏者として各地を興行、竹山を名乗る。この間、雲竹、竹山の名コンビにより津軽民謡の数々を発表。(りんご節、鰺ヶ沢甚句、十三の砂山、弥三郎節、ワイハ節、津軽願人節等は二人の作による。)昭和39年に独立、独自の芸域を切り開いて津軽三味線の名を全国に広く知らした。昭和50年、第9回吉川英治文化賞、第12回点字毎日文化賞を受賞、昭和58年には勲4等瑞宝章を受ける。東京渋谷にあった、「ジァンジァン」でのライブは多くの若者の心を捕らえて、全国に竹山の津軽三味線ブームをわき起こした。全国労音の公演他、ロシア、アメリカ、フランス等、海外公演でも高い評価を受けた。1998年2月5日、全国のファンが惜しむ中、享年87歳の生涯を閉じたが、高橋竹山の哀愁のある魂の音色はいつまでも人々の心の中に響きつづけている。
続く
- 2012/02/29(水) 09:06:01|
- 三味線回顧録
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教室は東京大田区の東雪谷会館というところで、五反田から池上線に乗り換えて石川台という駅から徒歩10分くらいのところにあった。
電話の声では年配の先生だと想像していたので、栄山先生がまだ30代という若さだったのには驚いた。早速、事の成り行きを先生にお話ししたところ、三味線を弾いて聴かせて下さった。三味線じょんから、津軽あいや節、新じょんから節など、それは私がレコードで聴いていた曲そのものだったのだ。この時は本当に嬉しかった。早速入門の許可を得て翌日から教室に通うことになるが、その夜は興奮して眠れなかったのを覚えている。
私はまるで水を得た魚のように、それからは毎日毎日が楽しく無線通信士という本業の合間を縫っては稽古に励んだ。
竹山先生の三味線が入った音源があればLPアルバムに限らず、EP盤(シングル)やカセットテープなど、番組があれば全てチェックして聴いては稽古。そして渋谷のジァンジァンにも通い詰めた。
ある時、栄山先生が「この教室の宣伝をするのでチラシをジァンジァンに届けて欲しい!」ということになり、楽屋に届ける係に抜擢されたのだ。どこの誰が来たかと、いまの二代目さんやマネージャーには怪訝そうな顔をされたが、「栄山先生から預かりました!」と言ったら快く引き受けて下さった。でもこの時はまだ竹山先生には会わせてもらえない状況。でも私に届けて欲しい!と言って下さった栄山先生、そして少しでも竹山先生に近づけたことが嬉しくてたまらなかった。


1977年に新藤兼人監督の「竹山ひとり旅」という映画が製作され、地元の大宮でも上映された。現在の大宮ソニックシティが商工会館だったころの話で私は23歳だったが、この時は竹山先生も舞台挨拶で演奏をされた。そして竹山ひとり旅の自伝本も同時に出された時だ。「映画ですから面白いところもありますよ!あんまり面白くて明日の朝になるかもしれませんよ」なんて言って笑わせていたのを覚えている。LPアルバムの解説書では先生の生い立ちや曲の説明などを何となく理解していたが、この映画を鑑賞し自伝を読むことで、あらためて深い音色に込められた壮絶な人生があったことを知り愕然とする。
続く
- 2012/02/29(水) 00:46:13|
- 三味線回顧録
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一般民謡を習いながらも津軽三味線の独学に励んでいた頃、壁に突き当たって、どうしても高橋竹山先生に直接指導を受けたくなってしまった。それには今習ってる一般民謡の会を辞めなければならならい。端唄、俗曲を弾くような先生からすると「津軽三味線は叩くもの、ジャカジャカとうるさいだけで、あんなものは邪道だ!」という世界だった。峰村先生に相談したところ、「竹山先生の三味線は別だ。上手になったら会のゲストなどの伴奏をして欲しい!」と大きな心で快く円満退会をさせて下さった。
ちょうどその頃、民謡大会のプログラムをめくっていたら、裏表紙に津軽三味線教室の広告が出ていたのだ。何と「竹山流津軽三味線・東京高円寺教室 校長:高橋竹山 師範:高橋栄山」と書いてあるではないか!本当かな?この三味線がこんな近くで習えるのか?疑問を持ちながらも早速教室に電話してみた。三味線屋を借りた教室だったが、「今はこちらでは教えていません。大田区の東雪谷に移りました。」という返事。連絡先を聞いてそちらにも電話してみたら、ちょうど稽古日だったようで、栄山先生が直接応対して下さった。
栄山先生は神戸に住んでいて、出張で東京まで教えに来ていたのだ。「2,3日こちらに滞在しているから良かったら来てみなさい!」嬉しくて心が躍った。こんな素晴らしい三味線を本当に教えてもらえるのか?と少し疑っていた自分は従兄からカセットレコーダーを借りて教室を訪ねることになった。
続く・・・・・
- 2012/02/26(日) 00:09:04|
- 三味線回顧録
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障がいを持つ人たちが、それぞれの施設で作った製品を展示即売。障がいを持つ人も持たない人も手を取り合い、仲良く暮らし続けたいという思いから、出会いの場として始まったホットなフェスティバル。第1回目の久喜のイトーヨーカドーから始まったコンサートも早いもので11回目を迎え、連続で出演させていただいてきたが、今日のホットハートフェスティバルは久喜市の大型ショッピングモール・モラージュ菖蒲で開催された。若手女性尺八奏者で藤原道山さんのお弟子さんである、五十嵐香織さんとのコラボレーションはアメージンググレース等の即興に挑戦した。土曜日とあって2階、3階からも見下ろすように多くのお客様で賑わい、障がい者の皆さんとも触れあえたホットなコンサートとなりました。
- 2012/02/25(土) 23:04:15|
- コンサートから
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ホームページはありますが、以前からブログもやってみたかったのです。
ただ日々の出来事ばかりでは面白くないので、何か自分の軌跡みたいなものを
書けば結構な内容になるのではないかと思い、三味線界に入ったきっかけや、
それにまつわるいろいろな出来事を綴ってみようと思いました。
興味のある方はどうぞお付き合い下さい!
- 2012/02/24(金) 15:35:15|
- 日々の出来事
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ちょうどグループサウンズが全盛の頃、中学生だった私は趣味でかじる程度のガットギターでGSの曲や
禁じられた遊びなどをかき鳴らしていた。
その頃、昔芸者だったという叔母から皮の破れた細棹三味線をもらったが、ギターを抱えていた私には
何とも違和感のある楽器に思えてなじめなかった。
間もなくして民謡舞踊をやっていた亡き母は、近くの峰村利松繁先生に民謡三味線を習いに行きはじめた。
私がギターをやっていたのを見ていたので、興味を示すかと思ったのか「勇(本名)もやってみるか?」と
誘われ、面白いかもしれない!と私も追って入門。(1974年12月2日)
黒田節から始まった民謡三味線が結構面白くて、休まず通い続けた結果、全国民謡200曲以上は覚えたろうか。
その先生から習う曲が無くなってしまい、上の先生である峰村利松先生のところに通うことになる。(1977年6月3日)
利松先生は元大塚(池袋近く)の芸者であったが、当時NHKの邦楽百選にも出演していてレコーディングも
多数のスゴイ先生だった。
「何を習いたい?」と先生。私は当時一般民謡では難しい部類に入っていた「秋田舟方節」を教えて下さい!
と言ったら即対応して下さった。

稽古場には日本髪を結った芸子さんやプロの民謡歌手などが多く出入りしていて、「勇ちゃん!」などと
可愛がられ、若かった私は恥ずかしいくらいだったのを記憶している。
先生の会が日本民謡協会や郷土民謡協会に所属していたこともあり、私も協会の民謡全国大会などに出演させていただいた。


その頃弾いていた曲は、「十日町小唄」や「天龍下れば」など、何とも色っぽい曲ばかり。
大会に行けば津軽三味線の会も多く出演していて、その演奏を聴いてはカッコいいなあ~!と思ったものだ。
姉からの竹山レコード提供はちょうどその頃だったのである。
続く・・・・・
- 2012/02/24(金) 14:36:23|
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22歳の頃、すでに一般の民謡三味線の会に所属していた私は
民謡全国大会などで、武道館や国技館等で演奏していた。
その頃、飲食店を経営していた姉のところでアルバイトしていたが、
「お客様がこんなレコード持って来たけど聴いてみる?」
それは1970年代に渋谷のジァンジァンという地下の小劇場で
演奏していた名匠・高橋竹山のライブ録音のLPだったのだ。
針を落とした瞬間、鳥肌が立つくらいの衝撃を受けた。
「同じ三味線でもこのような音色が出せるのか?」
虜になった私はレコードが擦り切れるくらいに何度も聴き、
中棹の民謡三味線で耳コピをしてみた。
そして独学で何とか 津軽三味線の数曲と新じょんから節が弾けるようになったものの、
1ヶ所だけどうしても真似できないところがあった。
独学では無理があり壁にぶち当たった。これは先生のところに行くしかない!
それから私の人生が一変した・・・・・続く
- 2012/02/24(金) 13:42:19|
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