
ちょうど名取になった年に発売されたのが「寒撥」のLPだった。
昭和46年度 芸術祭参加 優秀賞受賞作品
高橋竹山自伝 「寒撥」 (1978)
<A面>
無垢無限の章
無限一光の章
<B面>
流浪開明の章
心眼三弦の章
※許諾なしに制作されたため、発売中止となったレアな音源であったが、
その後,株式会社RAB開発からVHSテープで映像が発売されている。
- 2012/03/20(火) 00:05:52|
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ちょうどこのレコードが出された1978年、25歳の時に名取の話が持ち上がったのだ。
入門した時はすでに新じょんから節を弾いていた私は、栄山先生との
出会いから水を得た魚のように泳ぎだし、三味線じょんから、三味線よされ以外の曲は
下手ながらほぼマスターしていた。そんなこともあって何とか技量を認めていただき、
短期に免状を授けていただくことが出来た。免状の授与式および披露宴は東京白金台の八芳園で開催されたが、
第1回目の東京栄山会名取披露とあって、その席には竹山先生や須藤雲栄先生が、そして当時はまだ竹与と
名乗っていた二代目竹山先生も同席しての大きな披露宴となった。
私は本名が「勇」なのだが、もったいなくも竹山先生の竹をいただき、「竹勇」という雅号を授かることになる。
お恥ずかしいがその時の記念写真。まるでカツラをかぶっているように髪もフサフサだった(笑)

第1回 東京栄山会名取披露宴
昭和53年11月14日 八芳園に於
この時の名取は4名だったが、残念ながら現在残って続けているのは私のみとなってしまった。
名取は新じょんから節と須藤雲栄先生の唄う津軽あいや節に伴奏を付けるというもの、
そしていよいよ竹山先生のお祝いの言葉と演奏が披露された。
先生は津軽物ではなく、昔はこうであったよ!と語りながら珍しい安来節や串本節を
唄いながら演奏して下さった。嬉しい時には特にそのような曲をあえて演奏するのだそうだが、
今も残っている音源を聴きなおしても、それはそれは素晴らしいものだった。
更に栄山先生の伴奏による雲栄先生の唄の数々、青森からは船橋純子さんの手踊りなど
祝いの席が盛り上がっていったが、今となってはまず聴くことが出来ない貴重な生体験、
この席に参加出来ただけでも幸せだった。
ちょうどこの頃のジァンジァンには、竹山先生と一緒に竹与さんや船橋純子さんが
手踊りで出演していたときだった。
その後わたしは竹山流の名取に恥じぬように更なる修業の道に入ることに!
続く・・・・・
- 2012/03/08(木) 19:14:27|
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大田区東雪谷にあった稽古場には多いときで30名程の生徒が習いに来ていた。
遠方では山梨あたりからも来ていたが、早い人ではすでに津軽あいや節など、
あこがれの曲を弾きまくっていたのには驚いたものだ。
本来ならばこちらから神戸まで習いに行かなければならぬのに、先生は神戸から
わざわざ出張で来て下さっている。本当にありがたいことだった。
この頃の私は高橋竹山のLPほか伴奏しているEP盤やテープなど、
ありとあらゆる音源を聴きまくっていたが、竹山だけでなく他の津軽三味線奏者の
レコードも聴いて勉強した。白川軍八郎、木田林松栄、山田千里、小山貢、澤田勝秋、
高橋祐次郎、五錦竜二などなど、やはり名人と言われた人たちの三味線も素晴らしかったが、
その中でも私の魂を動かしたのはやはり竹山先生の音色だった。

何度聴いても飽きがこない、その何とも切ない哀愁のある音色は、ボサマと蔑まれ、
差別の中の壮絶な人生体験から生まれたものだとわかる。
耳コピで旋律を真似で来ても、いやその旋律さえ真似するのが難しいのだが、その音色までは
絶対に真似できるものではない。面白いもので三味線は同じように弾いても弾く人によって
違った音色になるという、個性が顕著に表れる楽器である。

渋谷のジァンジァンにもよく通っていたが、栄山先生の弟子ということで、
この頃になってやっと楽屋に通していただき、竹山先生に初の面会が叶った。
緊張してしまって何をしゃべったか覚えていないが、お見知りおきいただき本当に嬉しかった。
たまの稽古の時には、奥様の須藤雲栄先生や工藤竹風氏なども遊びに来られてその素晴らしい唄声を
披露して下さった。
竹風氏は竹山先生から見出された唄い手で、成田雲竹を彷彿とさせる素晴らしい唄い手であった。
雲栄先生はもちろんだが、お二人とも竹山先生の伴奏でアルバムやテープを出されていた大先生で、
その唄を真近に生で聴けたことは貴重だった。

私はさらに唄付けという難しい課題に突き当たり唄を勉強するようになった。
そして入門1年後に転機が訪れることになる。
続く
- 2012/03/08(木) 12:34:45|
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先生方と出会わなければ今の自分はなかった。
ここで恩師である高橋栄山と津軽民謡の恩師・須藤雲栄について書き記したいと思う。
高橋栄山

青森市生まれ
15歳の頃から民謡を習い始め、17歳の時に参加した民謡コンクールの伴奏者であった高橋竹山と出会う。
その三味線の音色に感銘を受け、当時、弟子を取りたがらなかった竹山に入門したい一心で、
成田雲竹翁と弟子の間山雲龍氏が指導していた民謡教室(外ヶ浜会)への送迎や身の回りの雑用を買って出るうち、
その情熱が通じてか3年後の20歳の時に入門を許される。
月に4回ほど50キロほどの道のりを送迎するかたわら竹山宅で指導を受けることになる。
その間、商業施設のステージなどで修業を積み26歳でプロとして独立する。
昭和39年、竹山は初の津軽三味線の独奏だけのLPレコードを出したが、この年、成田雲竹が引退、
竹山は労音を中心に全国で「現代的な門付け」行脚をスタートする。

この時から、成田雲竹の最後の愛弟子、須藤雲栄が唄い手として同行、目の不自由な竹山を支えて
10数年にわたって渋谷ジァンジァンをはじめ労音等によって全国各地での演奏活動を展開した。
ここに空前の竹山ブームが巻き起こったのである。
高橋竹山の存在が全国的に認知されるようになる1975年、「東京や関西、九州にも竹山の音を
愛してくれる人がたくさん居る。そのような人達のために心を豊かにする趣味として竹山流を
教えてほしい」という初代竹山の依頼を受け、妻となった須藤雲栄と愛娘、長崎純子(二代目須藤雲栄)とともに
津軽を離れ、神戸に道場を構えることとなる。
以来30数年、高橋栄山と須藤雲栄は、故 雲竹、竹山の努力によって質的に高められた津軽の心を伝え続けている。
「人としての素直な心が大自然への畏怖とともに織りなす、やむに止まれぬ心から発する『うた』を極めていくことが、
私たちの仕事であり、今の時代にとって本当に大切な事ではないか」
高橋栄山は竹山流津軽三味線の最大の後継者で、その撥さばきと音色は若き日の竹山生き写しといわれている。
1999年には在南アフリカ共和国大使館主催のジャパンフェスティバルに招かれ、
ヨハネスブルクのマーケットシアター、ケープタウンに於いて初の津軽三味線公演とワークショップを開催。(竹勇も同行)
2002年には在クウェイト大使館主催の
"Japan Year '02"に招かれ、クウェイトテレビ出演やイスラム博物館での公演では
絶賛を浴びる。また高橋竹山との全国ジョイントコンサート等、雲竹、竹山の本質を相伝する希有の存在として注目されている
竹山流津軽三味線の第一人者である。(資料提供協力:高橋丹山)
須藤雲栄

黒石市生まれ
15歳の頃、津軽民謡の名人、成田雲竹翁に師事。
日本民謡協会全国大会に於いて高橋竹山師の伴奏で津軽あいや節を唄い全国優勝。
栄山と結婚後も竹山と共に全国公演や渋谷ジァンジァンにも出演し、
レコーディングも多く、津軽民謡の第一人者として一世を風靡する。
現在、夫の栄山と共に後進の指導にあたりながらレコーディングやコンサート活動を
展開している。
- 2012/03/06(火) 16:22:24|
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