
今朝、家の近くの元荒川堤に咲いている桜並木を撮影しました。いよいよ春本番です。29 Mar '13
- 2013/03/29(金) 11:25:33|
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ブラジルパラナ州の友人マルコ氏が、facebookで日本文化をブラジルの人たちに紹介しているいる。かなり詳細な説明付きの写真を掲載しているが、それは日本人の私達でさえ勉強になる素晴らしい内容だ。今回は私の写真も入れて三味線のことを紹介して下さった。彼は日本文化(特に日本史)に造詣が深く、幼い時から日本という国とその文化に深い興味を持っていて、日本国民や芸能や歴史などを更に深く理解するために日本語を13年間勉強した末に、日本語優秀者として日本に招待されたこともあるくらいだ。純邦楽や歌舞伎などの古典芸能も大好きだという彼だが、私のホームページを観てメールのやりとりが始まり、2002年に遠く地球の裏側から私の家へ訪ねてやってきたのだった。竹勇会としても津軽三味線を弾いて、歓迎の宴を開いた。そして日光にもご一緒したり滞在期間中は日本を満喫していただいた。ブランクはあったものの、またfacebookで再会出来て嬉しく思っている。マルコさん、ありがとう!
(これも一枚のレコードから津軽三味線を始めた末に、ホームページを開設して得たご縁だった)
- 2013/03/27(水) 16:38:12|
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須藤雲栄先生のお母様は津軽民謡の大御所と言われた黒石の須藤タキ先生だ。タキ先生は、その頃に石川県加賀の山代温泉ホテル百万石で民謡ショーの座長を務めていて、有名な津軽三味線奏者や民謡歌手も出演していた。ちょうど私に結婚話が持ち上がり、その準備に入っていた頃、栄山先生から山代温泉に修業に行かないか?とのお話があった。温泉に行くには彼女も連れて行かなくてはならず、しかも一緒に働かなければならない。全くの堅気であった彼女にこの話をしたら泣かれてしまった。唄付けの勉強にはなるだろうが、これから一緒になろうとする彼女を泣かすわけにはいかない。私は仕方なく先生にお断りをして、結婚後は独自にライブ活動の道を選ぶことになる。(今となってはこの決断は正解だったと思っている)
その代わりと言っては語弊があるが、山代温泉行きに白刃の矢がたったのが兵庫県加古川の兄弟弟子の丸山竹仙(現、高橋竹仙)だった。彼は奥さんと一緒に山代温泉に住み込んで修業することになるのだ。お互いに学んだ教室も離れていて一緒になる機会はまずなかったが、大阪の伊丹で須藤雲栄先生の弟子の発表会に高橋竹山先生と須藤タキ先生がゲストで出演された時に、竹仙も一緒に来ていて話をすることが出来た。やはりタキ先生のところで修業している人は違うな~!と驚いたものだ。大御所の先生の下で直接唄付けの勉強が出来るのだから本物だ。その後、彼は修業中のテープ音源を送ってくれたり、たまに私の家に遊びに来るようになって交流が始まった。お互いに切磋琢磨出来る相手に会えて嬉しかったが、そんな付き合いから、彼とはその後2回海外公演で一緒することになる。
- 2013/03/26(火) 23:47:04|
- 三味線回顧録
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午前中のレッスンは、津軽塩釜甚句でした。
「津軽塩釜甚句」(青森)
明治の初めころから、塩造りの人夫たちが、塩釜に海水を汲み入れる作業のときに唄ったと言われています。宮城県の塩釜甚句も有名ですが、この元唄は「南部あいや節」で、明治の半ば過ぎまで、「塩釜甚句」を「あいや節」と呼んでいたそうです。これが逆輸入の形で八戸の鮫港に上陸して「津軽塩釜甚句」になったそうですが、この唄は成田雲竹翁の門下生がよく唄い、津軽おはら節の元唄としてむしろ有名です。昭和4年、雲竹翁が高橋竹山師の伴奏でツバメレコードに吹き込みの際、お囃子にオワラ♪オワラナとあるところから津軽おはら節を命名し、鹿児島おはら節、越中おはら節とともに、日本の三大おはら節に育てようと思ったそうです。高橋竹山師の三味線に乗せて唄われる塩釜甚句は、リズム感があって、とてもノリのいい曲に仕上がっています。
午後のレッスンは、新じょんから節でした。

「津軽じょんから節」
南津軽郡浅瀬石の城主・千徳政氏は、南部大浦の城主・為信に滅ぼされました。為信の追及は政氏の死後にも及び、政氏の墓すら掘り起こそうとしたのです。千徳家の菩提寺たる神宗寺(長寿院)の役僧・常縁は、墓をあばこうとした為信の家臣に対して激しく抗議しました。為信の家臣たちは大いに怒り、常縁を斬ろうと打ってかかりましたが、常縁は刃の下をくぐり、浅瀬石川に身を投げました。この悲劇は、いつしか村人たちの唄となって受け継がれるようになったのです。僧・常縁が身を投じた河原を常縁河原と言い、やがて上の河原、上河原となり、唄の名前も上河原節、それが訛って「じょんから節」になったと伝えられています。時代の流れによっていろいろと節が変化し、明治から大正にかけて唄われたものを旧節、昭和の初期に流行ったものが中節、そして新節へ、今では新旧節なども唄われるようになりました。
- 2013/03/26(火) 22:44:23|
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