1990年代初頭、私は埼玉県狭山市にある地下のライブハウスでレギュラー出演していた。その頃は地元津軽弁の語り部とのコンビであったが「津軽弁の語りと津軽三味線の世界」という2時間ライブは毎回立ち見が出たほどの盛況で、モスクワのJapan Festival‘98でも上演されたことがある。2000年代になってからはコンビを離れて、異種ジャンルとのコラボレーションを試みていたが、2002年4月、その場所で久しぶりにライブを開くことになった。アフリカ太鼓のわきたにじゅんじ氏とサックスのTommy G氏とのユニット・イエローパッケージでやろうということになり、私が故高木恭造の津軽方言詩を朗読しながら演奏していたこともあって、わきたに氏が声をかけて当日聴きに来てくださったのが、故武力也氏と都月次郎氏、近野十志夫氏の三人だった。この時の劇的な出会いから三人との新しい展開を見せることになろうとは、不思議な縁で結ばれていたとしか言いようがない。

いつものように方言詩と三味線の演奏で「津軽の四季」を表現し、またイエローパッケージとの白熱したセッションで盛り上がった。最後に飛び入りで武力也が「ばっちゃのダダダコ」の朗読を披露、即興で三味線を付けたらこれがピッタリ合うではないか。「こんな詩人がいたのか!これならまたこの人とコラボレーションしてみたい!」と思った。ところが、彼の方も同じように思ったらしく、それからずっと共演の案を練っていたらしい。本格的なソロライブを見て研究したかったのだろう、その年の12月に富里市で開催した竹勇ソロライブに駆けつけてくれたのだ。その後、船橋の方へ来てくれないか?と言う話になり、2004年1月に二和公民館ホールで初共演が実現し大きな反響を呼んだ。

その年の4月には道祖会館で、6月には都月次郎と近野十志夫の両氏がプロデュースした神楽坂毘沙門天で開催された「お寺でコンサート」、7月には私がレギュラー出演している西荻窪の「奇聞屋」ソロライブにゲスト出演してもらった。この頃から二人の息もピッタリと合うようになり、私も彼の相棒となって朗読との共演にのめり込んで行くようになる。
9月には詩のボクシング千葉県大会にも招待され、演奏とジャッジといういい経験もさせてもらった。詩人会議の詩人の方々とも交流が多くなり、いよいよ詩の世界に深入りしていくことになる。
生活感のある詩の朗読を、独特なパフォーマンスで表現する武力也はまさに名プロデューサーでもあった。自分自身をプロデュース出来る芸術家である。詩を読み書きする人はたくさんいるが、彼ほどの表現者はそうはいないであろう。
二人には反戦という共通点があった。厳しい風雪の中をボサマと呼ばれて蔑まされ、戦争によって差別されながらも、その日の糧を得るために、まさに生きるために弾かなければならなかった津軽三味線。「ばっちゃのダダダコ」もまた、召集によって帰らなかった夫を待ち続ける子持ち女の悲哀を表現したものだった。どちらも戦争の犠牲者である。そして門付けという放浪芸人が楽しみにしていたのは村祭りだった。しかし乞食同然の身では恥ずかしくてとても村には帰れなかったのだ。村一番の太鼓叩きだった夫を戦争に取られた「ばっちゃのダダダコ」で叩かれる太鼓もなぜか空しく響いてくる。秋田出身の武力也には郷愁を誘う魅力があった。津軽三味線も郷愁を誘う。こんな共通点が結びつけたのだとすれば、伝えていかなかればならないものがあると思う。
忘れもしない彼とのライブを11月に「奇聞屋」で開催。どこへ出しても恥ずかしくないほど洗練されてきた津軽三味線との朗読ライブ。「また次回やろう!」と店を押さえておいた。まさかその次回ライブが彼の追悼ライブになろうとは・・・・・。
この時、記録的に録音していた音源は彼を偲ぶCDとして残された。

その中にもあるが、武力也は私を詩の中に登場させるようになり、笑いを誘う新たな朗読詩を次々と創りあげていた。そして自分の死に様までをプロデュース、新聞を読みながら天国の屋根を葺きに登っていったのだ。キラキラと光る心の釘をプレゼントしながら、伝えていってくれよ!と。(武力也の稼業はブリキ屋だった)
西荻窪のライブスペース・奇聞屋で開催された「武力也・追悼 山本竹勇・津軽三味線と朗読の夕べ」から
- 2013/12/11(水) 22:14:05|
- 三味線回顧録
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